日本における青年会議所の起源は1949年9月3日、東京青年会議所が産声を上げたのが始まりでした。その後各地で設立の機運が高まり、岐阜においても財界名士の方々から青年会議所の設立を勧められたのを発端として岐阜青年会議所の誕生へと至ったのです。
柳ケ瀬通から西(本郷地区)を望む。
(横の道は金華橋通り)
徹明町忠節方面電停前十六銀行
(右奥は金神社)
岐阜の経済がどうなっていくのか、前途には何があるのか考える暇もなく、焼け跡の整理、食料の確保に奔走し、占領下経済の混乱の中で再起復興に懸命な努力の日々でした。
1949年から50年頃になると、シャウプ税制勧告やドッジライン等の経済政策が行われる中で、不況の様相が強くなってきたところへ、朝鮮事変による特需景気が日本経済を好転させるきっかけになりました。
そのような社会背景の中で、十六銀行柳ヶ瀬支店の取引先を中心として「今後の経済問題についてお互いに研究しあおう」といった若手同好の士によって、”経友会”という会が結成され、これが岐阜青年会議所の母体となりました。
1951年になり十六銀行の吉川智慧丸頭取や、当時外遊から帰国された山崎一氏らから、海外JCの状況についての話があり、両氏の勧めによって、岐阜青年商工会議所(当時は商工という文字が入っていました)の編成に着手することになったのです。
当時日本におけるJCは、最初に東京において発足し1950年に名古屋で結成されたばかりで、地方都市にはまだ殆どありませんでした。また、会員の資格年齢も35歳を限度としていたJCが多かったために、経友会の半数程度は入会出来ない状況でありました。定款も他のJCと共通のもので準備を始めましたが、地方の諸事情もあって若干の訂正を余儀なくされました。
そうした様々な課題を克服し、1951年6月24日、吉川頭取、岐阜商工会議所会頭 山崎一氏、スポンサークラブである名古屋JCより、神野三男理事長、吉木賢三理事、井元啓太理事を迎え、レストラン協和(現在の神田町1 協和興業ビル)において臨時総会を開催、全国で21番目の青年会議所として会員43名で発足しました。尚、この総会において決議された岐阜JCの顧問には、武藤嘉門 元岐阜県知事、東前豊 元岐阜市長、吉川智慧丸元十六銀行頭取、山崎一 元岐阜商工会議所会頭、桑原芳吉・佐藤潔・郷諦 各岐阜商工会議所元会頭ら岐阜県下の有力者の名が連ねられています。(写真は設立当時の岐阜JCメンバー)
「本会議所の目的は青年の努力を結集して都市に奉仕し、
積極的建設的計画によって都民の福祉を増進し又会員相互の啓発と親睦を図り、
青年独自の立場より日本経済の発展に寄与するとともに、
目的を同じくする世界の青年と提携して人類の福祉、世界平和達成の
原動力となることにある。」
青年会議所には、品格ある青年であれば人種、国籍、性別、職業、宗教の別なく、自由な個人の意志によって入会できますが、20歳から40歳までという年齢制限を設けています。これは青年会議所が、青年の真摯な情熱を結集し社会に貢献することを目的に組織された青年のための団体だからです。すべての会員は40歳を超えると現役を退かなくてはなりません。この年齢制限は青年会議所最大の特性であり、常に組織を若々しく保ち、果敢な行動力の源泉となっています。
各地青年会議所の理事長をはじめ、すべての役職および所属する委員会の任期は 1年に限られています。青年会議所は、一人ひとりの会員が優れたリーダーシップをもつ社会人となるためのトレーニングを行う団体です。 1年ごとにさまざまな役職と活動を経験することで、会員は豊富な実戦経験を積むことができ、自己修練の成果を個々の活動にフィードバックしていくことができます。青年会議所におけるさまざまな実践トレーニングの経験を活かした活動分野は広く、OBも含め各界で社会に貢献しています。例えば政界では 120人を超える国会議員をはじめ、知事、市長、地方議員などの人材を輩出、日本のリーダーとして活躍中です。
自由な社会と経済発展を実現し、新しい社会をリードするにふさわしい人材育成を目的として、1915年にアメリカ・ミズリー州セントルイスにて、Henry Gissenbier という1人の青年が、同志31人を得て結集して生まれた小さな青年活動グループから始まりました。翌1916年にH.Howard 氏が会頭を務め、 ”Junior Chamber of Commerce” と称するようになりました。
その後、JC運動は、その活動が認められ、アメリカの社会的活動を担う主要な青年団体へと発展していきました。1944年には「積極的な変革を創り出すのに必要な指導者としての力量、社会的責任、友情を培う機会を若い人々に提供することにより、地球社会の進歩発展に資すること」を使命に、アメリカ、コスタリカ、エルサルバドル、グァテマラ、ホンジュラス、メキシコ、ニカラグア、パナマの8カ国によって国際青年会議所(JCI )が発足。その後、年々加盟国は増え、日本も1951年に加盟、JCI の一員として新たな活動の一歩を踏み出しました。
現在、JCIは114ヵ国が加盟、会員数約17万人の世界でも最も大きな青年団体です。現役メンバーに加え約 200万人以上のOBがいます。毎年10月頃には世界会議が開催され、世界中のメンバーが一堂に会する重要な国際交流の場となっています。日本では今までに東京、京都、大阪、名古屋、神戸、札幌、金沢が会場となっています。
日本における青年会議所の運動は、ある1人の青年実業家の行動と理念より始まりました。
1920年、二代目三輪善兵衛の長男として生を受けた三輪善雄氏は、1939年の父・二代目善兵衛の没後、若くして家業の小間物問屋「丸見屋」を継ぎ、三代目三輪善兵衛を襲名しました。しかし日本は間もなく、太平洋戦争の泥沼の道へと足を踏み入れて行き、善兵衛の許にも出征の命が下ることとなります。
第二次世界大戦の敗北と共に務めを終え、帰郷した善兵衛が見たものは空襲により焼け落ちた故郷と父から受け継いだ工場、そして戦争に疲れ切り活力を失った町と人々でした。そのような状況の中、善兵衛は終戦の翌1946年には工場を再建、実業家としての活動を再開します。
戦争により疲弊しながらも傷を癒す間もなく立ち上がろうとする人々を見つつ、戦後復興の時を生きる善兵衛は、明日を如何に切り拓き生きてゆくのか、若き経営者としてどうあるべきなのか、ずっと考えていました。旧日本帝国軍や、軍需産業に関わる財閥はすでに解体され、大企業はずたずたに分断されており、日本の経済界が負ったダメージは計り知れないものです。そこから立ち上がり、力をつけるには・・・
政財界においてこれまで力をもっていた人物の多くがその実権を喪失している今、祖国の復興のためには若き我らの情熱と活力こそが必要なのではないか。そう感じた善兵衛は1949年(昭和24年)9月3日、29歳の時に、東京商工青年会議所(現、東京青年会議所)の設立メンバーとなり、初代理事長に就任します。
以降、その志に賛同した人々により青年会議所は各地に発足し、現在は全国47都道府県に約700団体が存在し、総会員数は約36,000名を数えます。(2017年1月1日現在)